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滋賀の誇りが今を照らす②:地域産業別の観点から

更新日:6月18日

明治の自由民権運動と、令和の減税と規制緩和の歴史的確信

はじめに:明治期滋賀の経済と民権運動の意義


本報告書は、明治時代以降の滋賀県における地場産業の発展と、同時期に展開された自由民権運動との関係性を深く掘り下げ、特に「減税」と「規制緩和」という現代の経済政策論議に歴史的な根拠と確信を提供することを目的とする。歴史的視点から、民衆や産業界が直面した課題と、それに対する彼らの自律的な解決努力、そして政府の政策や介入が経済活動に与えた影響を分析する。

明治維新は、日本全国に大きな社会・経済的変革をもたらした。滋賀県も例外ではなく、旧来の封建体制から近代国家への移行期において、産業構造の転換、税制改革、そして政治参加を求める民衆運動が活発化した。琵琶湖という豊かな水資源と、近畿と東日本を結ぶ交通の要衝という地理的特性は、滋賀県の地場産業の発展に大きな影響を与え、同時に、政府の近代化政策や地租改正といった経済的負担が、自由民権運動の原動力となった。この報告書では、滋賀の歴史的経験から、現代の減税・規制緩和論が持つ正当性を探る。


第1章 明治期滋賀県の主要地場産業の変遷と課題


この章では、明治維新以降の滋賀県における主要な地場産業がどのように変遷し、どのような経済的課題に直面しながら近代化を進めたかを詳述する。


1.1 繊維産業(彦根製糸、近江上布):近代化の光と影


明治維新以降、滋賀県は新しい産業に果敢に挑戦し、特に繊維産業が彦根市や八幡市を中心に発展し、日本の近代化を支える重要な役割を果たした 。明治9年(1876年)、彦根に製糸場を設立するよう県に訴えがあり、紆余曲折を経て明治11年(1878年)に犬上郡平田村に彦根製糸場が滋賀県初の器械製糸工場として創設された 。この製糸場は、富岡製糸場と同様に模範工場としての意味合いを持ち、旧彦根藩士族の殖産興業と士族授産を目的とした地域復興事業でもあった 。   


しかし、当時の滋賀県の製糸業は西洋化が進まず、品質は旧来の「粗糸」のままであった 。武節らはこの「陋風」を破り、洋風器械の導入による精良な糸の生産と販売価格の向上を目指した 。富岡製糸場から帰郷した工女も、器械がないため技術を教えられない状態であったと記録されている 。明治19年(1886年)には、官営工場民営化の方針により、彦根製糸場は旧彦根藩主の井伊智次郎に払い下げられ、滋賀の繊維産業の近代化は県から民間へと担い手を移した 。彦根製糸場の生糸は「城印」「亀印」などの商標で海外にも輸出されたが、明治35年(1902年)には火災や相場の暴落により廃止された 。   


この歴史的事実から読み取れるのは、政府主導の産業育成には限界があり、民間の活力が不可欠であるという点である。彦根製糸場は当初県営の模範工場として設立されたものの、品質向上や経営の持続性には課題を抱えていた。その後、民間に払い下げられたという事実は、政府が産業育成において直接的な経営に限界を感じ、民間の活力に期待したことを示唆する。これは、現代の「規制緩和」や「民営化」の議論において、政府の役割を最小限に抑え、市場原理に任せることで産業の効率性や競争力が高まるという主張の歴史的先例となりうる。政府が直接介入するよりも、民間が自律的に技術革新や市場開拓を行う方が、持続的な発展につながるという教訓を読み取ることができる。

また、滋賀の製糸業が「粗糸」のままであったことや、富岡帰りの工女が技術を活かせなかったという記述は、既存の技術や生産体制が市場の変化に対応できていなかったことを示している。彦根製糸場が最終的に廃止された理由の一つに「相場の暴落」が挙げられていることは、単なる生産だけでなく、市場の動向を読み、柔軟に対応する能力が不可欠であることを示唆する。これは、産業が生き残るためには、外部環境の変化に迅速に適応し、常に技術革新や新商品開発に取り組むような発想が重要であるという現代の主張を補強する。

湖東麻織物(近江上布)は鎌倉時代から続く歴史を持ち、江戸時代には彦根藩の保護と近江商人の活躍により全国に販路を広げた 。   


※喜多は近江上布の麻をこよなく愛しております



1.2 伝統工芸(彦根仏壇、信楽陶器):市場の変化と産業の再編


彦根仏壇は、江戸時代中期に彦根城築城に伴い集まった武具職人が、太平の世の到来とともに仏壇職人へと転業したことに始まる 。幕末には問屋制家内工業で本格的に発展し、京仏壇に比べ低廉な価格で多くの支持を集め、北は北海道から南は九州まで全国に広い販路を拡大した 。明治維新後も、大型の高級品から普及品まで幅広い生産体制を誇り、彦根の有力な地場産業として確立された 。   


明治33年(1900年)に公布された重要物産同業組合法に基づき、明治39年(1906年)3月には「彦根仏壇同業組合」が認可された 。この組合は品質維持向上に注力し、その結果、仏壇の生産高は明治末期から急速に上昇し、大正7年(1918年)の好景気を受けて約2倍に達し、黄金時代を迎えたとされている 。彦根仏壇は、彦根の三大地場産業の一つとして今日までその地位を保っている 。   


信楽陶器は日本六古窯の一つであり、742年に聖武天皇が紫香楽宮を造営した際に瓦を製造したことに起源を持つ 。明治36年(1903年)には「信楽陶器同業組合」が「模範工場」を創設し、これが昭和2年(1927年)に「滋賀県立窯業試験場」へと発展した 。   


彦根仏壇同業組合の設立は、政府による強制ではなく、問屋が自主的に結集し、品質維持向上を目指した結果である。これは、産業が自律的に課題解決に取り組む能力を示しており、過度な政府介入や規制がなくても、市場の健全な発展を促すための「自主規制」や「業界団体による標準化」が可能であることを示唆する。現代の規制緩和論が、産業界の自律性を重んじるのと同様の歴史的背景が見て取れる。

彦根仏壇が「低廉な価格で多くの支持を集め、全国のさまざまな地方に向けた幅広い販路を持つ」ようになったことは、伝統工芸であっても市場のニーズ(価格、販路)に適応したことが成功要因であることを示している。現代の地場産業が直面する「国内市場の減少」「後継ぎ問題」「新商品開発後の販売課題」といった課題  は、明治期からの市場変化への対応の連続線上にある。これは、伝統産業が持続するためには、伝統技術の維持だけでなく、絶えず市場の変化を捉え、柔軟な経営戦略(例:新商品開発、販路開拓、インターネット販売活用)を取ることが不可欠であり、そのための「規制の無駄を省く」ことが重要であるという主張を裏付ける。   



1.3 第一次産業(農業、林業、漁業):地租改正と資源管理の挑戦


滋賀県の米作は弥生時代から盛んで、平安時代には国内有数の水田面積を誇り、江戸時代には「京の御米」として評価されていた 。しかし、明治8年(1875年)の地租改正により、租税が米から金納になったことが、米の生産管理体制のずさん化と品質低下を招き、「江州の掃き寄せ米」と揶揄される事態となった 。これに対し、明治21年(1888年)には近江商人・堀井新治郎らの呼びかけで「米質改良組合」が結成され、すべての近江米に対して徹底的な検査と管理を実施した 。その結果、明治30年(1897年)の地方博覧会で最高評価を受け、名誉回復を果たした 。さらに、明治31年(1898年)には滋賀県農事試験場長・高橋久四郎が水稲初の人工交配に成功し、日本初の人工交配品種「近江錦」を育成するなど、新品種育成にも取り組んだ 。明治期には、オランダなどを範とした耕地整理が進められ、区画整理、農道整備、排水改良による乾田化を目指し、増収効果を上げた 。   


明治維新後、桑・茶園の開墾や製茶・陶器製造のための薪炭需要の高まり、米価高騰による家屋建築の増加により、山林の乱伐が激しくなった 。滋賀県は「山林保護の諭達」を発布し、乱伐禁止や植栽奨励を説いた 。また、共有林の過剰利用を防ぐため「共有森林分配の告諭」を出し、割山制度を導入した 。明治16年(1883年)頃からは野洲川、家棟川、日野川の三流域で砂防工事に着手し、苗圃を設けて樹苗の無償交付や植樹奨励金制度を導入した 。近江商人である塚本兄弟が私財を投じて植林・砂防工事に貢献するなど、民間の協力も大きかった 。甲賀地域では、明治から大正にかけて木材製材用の「前挽鋸」の一大産地として発展し、和鋼から洋鋼への転換で全国的にシェアを拡大した 。   


琵琶湖の漁業は古くから行われていたが、明治初期は不漁が続き、島の暮らしは困窮した 。明治7年(1874年)、初代県令松田道之が「湖川漁藻泥取規則並税法」を発布し、許可制と税金徴収、漁場制限を導入し、近代的な法的規制が始まった 。過剰漁獲(特にエリ漁)が問題となり、県は一時的に規制を強化したが、強い反対で効果は薄かった 。資源保護のため、明治11年(1878年)には県営の養殖施設(現在の醒井養鱒場の前身)が設立され、明治17年(1884年)には「湖川漁業及藻類採取取締規則」が制定され、大津水産組合が組織され稚魚放流や養鯉事業が推進された 。明治33年(1900年)には県立水産試験場が設立され、養殖と淡水魚の研究が本格化した。明治42年(1909年)には動物学者の石川千代松が小鮎の飼育に成功し、全国への放流を可能にした 。   


地租改正による金納化は、農民が米の品質よりも量産を優先するインセンティブを生み出し、「掃き寄せ米」という品質低下を招いた 。これは、政府の税制が生産者の行動に直接的な影響を与え、意図しない負の側面(品質低下)を生み出すことを示している。現代の減税論が、税負担の軽減が生産者の意欲向上や経済活動の活性化につながると主張するのと同様に、過度な税負担や不適切な税制が経済活動を歪めるという歴史的教訓を提示できる。   


林業や漁業において、乱伐や過剰漁獲といった問題に対し、政府は規制(乱伐禁止、許可制、エリ漁禁止)を導入したが、同時に民間や地域住民による自律的な資源管理(割山制度、米質改良組合、養殖事業)の努力も見られた 。特に漁業におけるエリ漁禁止が強い反対に遭い効果が薄かったことは、トップダウンの規制が必ずしも成功しないことを示唆する。これは、現代の規制緩和論において、政府が一方的に規制を課すのではなく、市場や地域社会の自律的な調整能力を信頼し、それを支援する形での政策がより効果的であるという主張の根拠となりうる。   


表1:明治期滋賀県の主要地場産業と経済的特徴

産業名

明治期の主要動向

直面した経済的課題

近代化への取り組み

関連情報源

繊維産業 (彦根製糸)

明治11年(1878)彦根製糸場設立(県営→民間払い下げ)、海外輸出    


器械化の遅れ、品質問題(粗糸)、相場暴落による廃止    


洋風器械導入の試み、民間への担い手移行    


   


繊維産業 (近江上布)

彦根藩保護と近江商人による全国販路拡大    


-

伝統技術の継承

   


伝統工芸 (彦根仏壇)

問屋制家内工業で発展、全国販路拡大、彦根仏壇同業組合設立    


-

組合による品質維持向上、生産体制の多様化    


   


伝統工芸 (信楽陶器)

明治36年(1903)信楽陶器同業組合が模範工場創設    


-

模範工場から県立窯業試験場へ発展    


   


農業 (近江米)

平安期から国内有数の水田面積、江戸期に「京の御米」として評価    


地租改正による金納化で品質低下(掃き寄せ米)    


米質改良組合結成、徹底検査、新品種育成(近江錦)、耕地整理    


   


林業

乱伐激化    


薪炭需要増、家屋建築増による山林乱伐    


山林保護諭達、共有林割山制度、砂防工事、苗圃設置、近江商人による植林    


   


漁業

明治初期は不漁続き    


過剰漁獲(エリ漁)、不漁    


湖川漁藻泥取規則(許可制・税金徴収)、養殖施設設立、水産試験場設立、稚魚放流    


   


商業 (近江商人)

全国・海外への広域経済活動、多様な商材    


-

「三方よし」の思想、複式簿記、チェーン店経営    


   



1.4 近江商人:広域経済活動と地域産業への影響


近江商人は中世から近代にかけて活動し、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つとされた 。彼らは近江国外に進出して活動し、「地商い」とは区別された 。高島商人(京都、東北、盛岡の城下町形成に関与)、八幡商人(畳表、蚊帳などの地場産業を育て、江戸や蝦夷地開拓へ進出)、日野商人(日野椀、医薬品の行商から醸造業へ、北関東に小型店を多数出店)、湖東商人(麻織物、農閑期行商、「のこぎり商い」を得意とする)など、地域によって特色ある活動を展開した 。明治2年(1869年)にはすでに横浜から海外へ近江牛を輸出していた近江商人もいたと伝えられている 。   


近江商人の思想・行動哲学として「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)が挙げられる。これは、単なる営利追求だけでなく、商いを通じて地域社会の発展に貢献すべきという考え方であり、伊藤忠商事創業者・伊藤忠兵衛(初代)が広めたとされる 。その他、「始末してきばる」(無駄にせず倹約し、本気で取り組む)、「利真於勤」(利益は任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎない)、「陰徳善事」(人知れず善い行いを積む)といった哲学も持っていた 。   


西武グループ、髙島屋、伊藤忠商事、丸紅、東洋紡、東レ、ワコール、トヨタ自動車、日本生命保険、武田薬品工業など、現代日本の多くの著名企業が近江商人の流れを汲んでいる 。   


近江商人が地域に限定されず、全国、さらには海外にまで販路を拡大し、多様な地場産業の発展に寄与したことは、民間による自由な経済活動が地域経済の枠を超えた大きな発展を促すことを明確に示している。これは、現代の「規制緩和」が、企業の活動範囲や事業内容の制約を取り払い、新たな市場機会を創出することを目指すのと軌を一にする。彼らの活動は、政府の保護や規制に依存せず、自らの才覚と努力で経済圏を広げた好例であり、経済的自由がもたらす活力を示す。

「三方よし」の思想は、単なる利益追求ではなく、顧客満足と社会貢献を重視するものであり、現代のESG経営やSDGsに通じる持続可能なビジネスモデルの先駆けと解釈できる。これは、減税や規制緩和が単なる企業利益の追求に終わらず、社会全体の利益につながるべきだという主張に深みを与える。つまり、経済的自由は、企業の倫理観や社会貢献意識と結びつくことで、より健全で持続的な経済発展を促すという、現代の減税・規制緩和派が目指すべき理想像を歴史的視点から補強する。


第2章 滋賀県における自由民権運動の展開と経済的背景


この章では、滋賀県における自由民権運動がどのように展開し、その背景にどのような経済的要因、特に地租改正への反発があったかを分析する。


2.1 自由民権運動の萌芽と参加層の拡大:士族から農民・商人へ


自由民権運動は、明治7年(1874年)1月17日の「民撰議院設立建白書」提出を起点とし、西南戦争後の明治11年(1878年)9月に大阪で開催された愛国社再興大会から本格的な出発を迎えた 。滋賀県には明治13年(1880年)頃から運動が活発化し、同年には117回、翌14年には76回の政談演説会が開かれた 。明治13年(1880年)3月の愛国社大会には、滋賀から伏木孝内(浅井郡)らが参加したのが、滋賀県人の名が自由民権運動に出てくる最初の例とされる 。   


自由民権運動は当初、不平士族が中心であったが、しだいに農民や商工業者などにも支持を広げていった 。滋賀県においても、豪農層  や商人層  が運動に加わっていったことが確認される。例えば、甲賀郡水口村の人々が大阪府出身の青山薫に総代の役割を託し、滋賀・栗太・野洲・甲賀郡の有志が高田義甫とともに自由主義政党結成に尽力した事例が見られる 。   


地域結社の形成も活発であった。明治8年(1875年)には彦根で「彦根義社」(後に集議社)という民権結社が結成され、西村捨三、石黒務、外村省吾らが発起人に名を連ねた 。彦根義社の発起人は彦根製糸場の設立趣意書にも名を連ねており、産業振興と民権運動が結びついていた可能性を示唆する 。明治22年(1889年)9月には草津に「湖東苦楽府」が設立されるなど、政治結社の結成が相次いだ 。明治23年(1890年)4月には大津交道館で板垣退助を招いて「近江自由大懇親会」が開催され、運動の盛り上がりを示した 。   


自由民権運動が不平士族から農民や商工業者へと支持層を広げた背景には、地租改正による農民の経済的困窮(「掃き寄せ米」の事例など)や、近代化の過程で生じた社会経済的変化への不満があった 。これは、現代の減税・規制緩和論が、国民の経済的負担や企業の活動制約が、社会全体の不満や停滞につながるという主張に歴史的重みを与える。経済的自由の欠如が、広範な政治運動の引き金となりうるという因果関係を示す。   


滋賀県各地で結社が形成され、演説会が活発に行われたことは、地域住民が自らの問題意識に基づき、自主的に政治的組織を形成し、議論の場を設けたことを示唆する 。これは、政府によるトップダウンの政策だけでなく、地域社会のボトムアップの動きが重要であり、その活力を引き出すためには、言論・集会の自由といった政治的自由だけでなく、経済的自由(減税、規制緩和)が不可欠であるという現代の主張を補強する。   



2.2 地租改正への反発と減税要求:民衆の経済的苦境


明治政府の主要財源は年貢であったが、歳入不足を補うために地租改正を強行した 。地租改正は、土地の収益に基づいて地価を定め、その3%(後に2.5%に減額)を地租として土地所有者に金納させるものであった 。政府は「旧来の歳入を減らさざる」方針であったため、農民の負担は軽減されず、むしろ金納化により米価変動のリスクを直接負うことになった 。地価が高く設定されれば小作料も跳ね上がり、多くの農民が土地を手放し小作人に転落し、生活は困窮した 。滋賀県でも、地租改正が米の生産管理をずさん化させ、「江州の掃き寄せ米」と揶揄されるほど品質を低下させた 。   


地租改正事務局が設置され強行された明治8年(1875年)以降、農民の不満が爆発し、地租改正反対の農民一揆が頻発した 。政府は民衆の強い反発を受け、明治10年(1877年)に地租率を2.5%に軽減せざるを得なかった 。滋賀県でも、明治9年(1876年)から12年(1879年)にかけて、地租改正反対運動から自由民権運動へ発展する事例が見られた 。明治20年(1887年)の三大事件建白運動では、「地租軽減」が主要な要求の一つとされ、滋賀県からも渡部清太、金子利助の2名がこの建白運動に参加したとされる 。   


地租改正は、農民の生活に直接的な打撃を与え、米の品質低下という産業レベルの問題にまで波及した 。これは、政府の税制が経済全体、特に基幹産業に与える影響がいかに大きいかを示す。現代の減税論が、高すぎる税金が国民負担率を高め、可処分所得を減らし、消費活動を抑制するという主張  は、明治期の地租改正の経験と重なる。税負担の軽減が、経済活性化の鍵であるという歴史的教訓を導き出すことができる。   


地租改正への反対運動が自由民権運動へと発展したことは、経済的苦境が政治的権利要求の直接的な動機となったことを示している 。農民たちは、単に税の軽減を求めるだけでなく、自分たちの意見を政治に反映させるための国会開設や言論の自由を求めた。これは、現代の減税・規制緩和派が、経済的自由の実現がより広範な政治的自由や国民の幸福につながるという主張  の歴史的根拠となる。   



2.3 彦根義社など地域結社の活動と経済的自由の追求


明治8年(1875年)に彦根で結成された民権結社「彦根義社」(後に集議社)は、西村捨三、石黒務、外村省吾らが発起人となった 。彼らは彦根製糸場の設立趣意書の発起人にも名を連ねており、地域の産業振興と民権運動が密接に結びついていた可能性を示唆する 。   


滋賀県内では、甲賀郡で法律研究会が毎夜開かれるなど、草の根の活動が見られた 。明治15年(1882年)には大津自由党と湖北に滋賀県自由党が結成された 。国会開設請願のため、県下全域で遊説が行われ、請願書の起草も進められた 。   


滋賀県近江国片岡村の平民、片岡伍三郎は、国会開設願望者を「不平士族の輩」と見る見方を「人情ノ視察ニ暗ク迂闊ノ極トイフベシ」と批判し、自身のような「寂寞ノ寒郷」に住む百姓ですら国会開設を願っていると建白した 。これは、民権運動が単なる士族の不満ではなく、広範な民衆の経済的・社会的要求に基づいていたことを示している。   


彦根義社のような地域結社が、単なる政治運動に留まらず、彦根製糸場の設立に関与した可能性は、彼らが地域の経済的課題にも深く関心を持ち、産業振興を通じて民衆の生活改善を目指したことを示唆する 。これは、現代の減税・規制緩和派が、経済的自由の追求が地域経済の活性化につながるという主張の歴史的裏付けとなる。地域レベルでの自律的な経済活動と政治的自由の追求が密接に連携していたことを示す。   


片岡伍三郎のような「寒郷」の百姓が国会開設を請願した事例は、自由民権運動が単なる政治エリートの運動ではなく、地租改正による経済的困窮に直面した一般民衆の切実な要求に根差していたことを強調する 。彼らの「経済的自由」への渇望が、政治的自由の要求へと繋がった。これは、現代の減税・規制緩和派が、政策が一部の特権階級のためではなく、広く国民の経済生活を豊かにし、その活動を自由にするためにあるべきだという理念を歴史的に補強する。   



2.4 演説会を通じた思想の普及と民衆の覚醒


滋賀県では明治13年(1880年)頃から演説会が活発になり、同年117回、翌14年には76回開催された 。自由民権運動の理論家である植木枝盛が彦根と草津を遊説し、特に草津での演説会は盛況を呈した 。片岡村(現滋賀県大津市内)でも植木枝盛による演説会が開催され、多くの聴衆を集めた 。   


演説会は、国民が自由に思想・意見・論説を公衆に討論・演説できるという、言論の自由の具体的な実践の場であった 。政府は明治15年(1882年)6月に集会条例を改正し、政治批判を目的とした結社や演説会への規制を強化したが、民権結社側はこれに対応し、活動を継続した 。   


演説会が頻繁に開催され、多くの民衆が参加したことは、情報が限られた時代において、民衆が政治や経済に関する知識を得、自らの意見を形成する重要な機会であったことを示唆する 。これは、現代の減税・規制緩和派が、政策の正当性を国民に広く啓蒙し、世論を形成することの重要性を歴史的にも裏付ける。自由な情報流通と議論が、健全な政策形成に不可欠であるという考え方を補強する。   


政府が集会条例で演説会を規制しようとしたにもかかわらず、民権派が活動を継続したことは、民衆が自らの経済的・政治的自由を求める強い意志を持っていたことを示す 。これは、現代の規制緩和論が、政府による過度な規制が民間の活力を奪い、イノベーションや経済成長を阻害するという主張に繋がる。歴史的に見ても、自由な活動を求める声は、規制の壁を乗り越えてきたというメッセージを伝えることができる。   


表2:滋賀県における自由民権運動の主な活動と経済的関連

時期

主な活動/出来事

主要参加者/地域

経済的関連/要求

関連情報源

明治7年(1874)

民撰議院設立建白書提出

-

政治的自由、経済的困窮の改善

   


明治8年(1875)

彦根義社結成

西村捨三、石黒務、外村省吾(彦根)    


産業振興への関与、経済的自由の追求

   


明治9-12年(1876-1879)

地租改正反対運動から民権運動へ発展

-

地租軽減、農民の経済的苦境の訴え

   


明治13年(1880)

愛国社再興大会(滋賀から伏木孝内参加)

伏木孝内(浅井郡)    


国会開設請願

   


明治13-14年(1880-1881)

政談演説会活発化(彦根、草津、片岡村など)

植木枝盛、高田義甫、片岡伍三郎、甲賀郡有志    


言論の自由、経済的自由の追求

   


明治14年(1881)

滋賀県会での野口忠蔵の提案

野口忠蔵(蒲生郡)    


町村自治、地方税負担軽減

   


明治15年(1882)

大津自由党、滋賀県自由党結成

-

自由主義政党結成

   


明治20年(1887)

三大事件建白運動(地租軽減要求)

渡部清太、金子利助(滋賀代表)    


地租軽減、言論集会の自由

   


明治21年(1888)

米質改良組合結成

堀井新治郎(近江商人)    


米の品質向上、農業生産の改善

   


明治22年(1889)

湖東苦楽府設立(草津)

-

政治結社の形成、国会開設準備

   


明治23年(1890)

近江自由大懇親会(大津)

板垣退助(招致)、滋賀・栗太・野洲・甲賀郡有志    


自由民権思想の普及、政治参加の促進

   



第3章 自由民権運動が地場産業と経済政策に与えた影響


この章では、自由民権運動が滋賀県の地場産業や経済政策に具体的にどのような影響を与えたかを考察し、その成果と限界を明らかにする。


3.1 減税・規制緩和要求の具体化と政府への働きかけ


自由民権運動の主要な要求の一つが地租軽減であり、地租改正による農民の負担増がその背景にあった 。実際に、農民一揆の頻発により、政府は明治10年(1877年)に地租率を3%から2.5%に軽減せざるを得なかった 。明治20年(1887年)の三大事件建白運動でも「地租軽減」が掲げられ、滋賀県からも渡部清太、金子利助の2名がこの建白運動に参加したとされる 。   


地方行政においても経済的自由に関する議論が見られた。明治14年(1881年)の滋賀県会では、野口忠蔵(蒲生郡選出)が戸長などの給料・役場諸費を地方税ではなく町村協議費から支弁するよう政府に建言することを提案した 。これは戸長を純粋な町村の理事者とし、町村自治を尊重する意図があったが、時期尚早として否決された 。この建議案が「町村自治論・自由民権論と相通じるものがある」と見なされたことは、地方財政における民衆の負担軽減と自治の拡大が、自由民権運動の重要な側面であったことを示す 。   


現代の滋賀県減税会は、「国民負担率48%までになった重い税金と増え続ける規制」が経済成長を阻害していると確信し、「一円の増税にも反対」「規制緩和の実現」を推進している 。彼らは、減税が可処分所得の向上、雇用創出、消費活動の活性化につながり、規制緩和が新規産業の発展や暮らしやすい街づくり、経済の活性化を図ると主張している 。   


地租軽減が実際に実現したことは、民衆の経済的苦境から生まれた具体的な要求が、政府の政策変更を促す力を持っていたことを示している 。これは、現代の減税・規制緩和派が、自分たちの活動が「正しいという確信が生まれるような活動」であると認識する上で、歴史的な成功体験として参照できる。民衆の経済的自由への渇望が、政府を動かす原動力となりうるという因果関係を示す。   


野口忠蔵の提案は、地方レベルでの財政的自立と、それを通じた住民の負担軽減、ひいては経済的自由の拡大を目指すものであった 。これは、現代の規制緩和論が、地方分権や地域経済の活性化を重視するのと同様に、地域が自律的に経済運営を行うことの重要性を歴史的に示唆する。中央政府の画一的な規制ではなく、地域の実情に応じた柔軟な対応が、経済的活力を引き出す上で重要であるというメッセージを伝えることができる。   



3.2 産業振興策と民衆・産業界の関与:自立への模索


明治政府は殖産興業をスローガンに掲げ、滋賀県も製糸場設立 、水産試験場設立 、農事試験場設立 、耕地整理  など、様々な産業振興策を推進した。林業においても、苗圃の設置、樹苗の無償交付、植樹奨励金などが行われた 。   


一方で、民衆・産業界の自律的な取り組みも多数見られる。米質改良組合の結成(近江商人・堀井新治郎ら主導)  や、彦根仏壇同業組合の認可 、信楽陶器同業組合による模範工場創設  など、産業界が自ら品質向上や組織化に取り組んだ事例が多数見られる。近江商人塚本兄弟による私財を投じた植林・砂防工事への貢献は、民間が公共事業に積極的に関与した好例である 。長浜では、滋賀県初の小学校開校や国立銀行開業、鉄道敷設など、全国に先駆けて近代化に取り組んだ 。   


滋賀県の産業振興は、政府や県の主導だけでなく、米質改良組合や仏壇同業組合、近江商人の植林事業といった民間の自律的な取り組みが不可欠であったことを示している 。これは、現代の減税・規制緩和論が、政府の役割を「民間が最大限の能力を発揮できる環境を整えること」と位置づける上で、歴史的な根拠となる。過度な規制や介入は民間の活力を削ぐが、適切な支援や環境整備は、自律的な成長を促すという因果関係を示す。   


近江商人が「三方よし」の精神で広範な商業活動を展開し、多くの現代企業に繋がる基盤を築いたことは、経済的自由が単なる利益追求だけでなく、社会全体の発展やイノベーション(例:複式簿記、チェーン店経営)を促進する可能性を示唆する 。これは、減税や規制緩和が、企業や個人の創造性や挑戦を促し、結果として社会全体の富を増大させるという現代の主張を補強する。   



3.3 自由民権運動の成果と限界:経済的自由への道のり


自由民権運動は、憲法制定の動きを早め、帝国議会で民党勢力が政府と対決する基盤を作った 。国民の意思を政治に反映させる第一歩となり、政府に憲法制定や国会開設を迫る大きな影響を与えた 。   


経済的自由への影響としては、地租軽減という具体的な経済要求の実現は、民衆の経済的負担を一部緩和した 。しかし、自由民権運動は激化事件を引き起こし社会に混乱を招いた側面もあった 。経済的困窮が運動の激化を招いたが、その過程で農民の土地手放しや小作人化が進むなど、経済構造の変化も生じた 。   


自由民権運動は一時的に頓挫したが、明治20年代には大同団結運動として再び活発化し、帝国議会開設へと繋がった 。滋賀県の地場産業は、明治時代以前から形成されてきたものが多く、人々のライフスタイルや社会経済状況の変化により、企業数や生産額は減少傾向にあるという現代の課題も抱えている 。これは、規制緩和や減税が、現代の地場産業の持続可能性を高める上で不可欠であることを示唆する。   


自由民権運動が地租軽減という具体的な成果を上げた一方で、激化事件などの混乱も経験し、経済構造の変化(農民の小作人化など)も生じたことは、経済的自由の追求が単純な一本道ではなく、社会全体に複雑な影響を及ぼす長期的なプロセスであることを示唆する 。現代の減税・規制緩和派は、短期的な成果だけでなく、長期的な視点での政策効果と社会への影響を考慮する必要があるという教訓を得られる。   


自由民権運動が経済的困窮を背景に広がり、一部で激化事件に繋がったことは、経済的自由の追求が社会の安定と両立する必要があることを示唆する 。過度な負担や不公平感は社会不安を招き、結果として経済活動を阻害する可能性もある。これは、現代の減税・規制緩和論が、単なる経済効率性だけでなく、社会的な公平性や安定性も考慮に入れるべきであるという、より洗練された政策議論へと繋がる。   


表3:自由民権運動と産業政策の相互影響

政策/運動の側面

具体的な影響/結果

相互作用のポイント

関連情報源

地租改正

農民の負担増、米の品質低下(江州の掃き寄せ米)、土地手放し・小作人化    


経済的苦境が地租軽減要求、自由民権運動を促進    


   


政府の産業振興策

彦根製糸場設立(県営→民間)、水産試験場設立、農事試験場設立、耕地整理、林業保護・植林奨励    


官主導の限界と民間への移行の必要性、適切な支援の重要性    


   


自由民権運動の経済的要求

地租軽減(3%→2.5%)、町村自治における地方財政の議論、経済的自由の追求    


経済的苦境が政治運動を促進、政治運動が政策変更を促す    


   


民間の自律的産業活動

米質改良組合、彦根仏壇同業組合、信楽陶器模範工場、近江商人による植林・広域経済活動    


民間活力が産業発展の原動力、社会貢献意識と経済活動の結合    


   


規制の導入と反発

漁業規制(エリ漁禁止の反発)、集会条例による演説会規制    


過度な規制は民間の活力を阻害、民衆の抵抗を招く    


   



結論:歴史が語る減税と規制緩和の重要性


明治期の滋賀県における地場産業の発展と自由民権運動の歴史は、経済的自由の追求が社会の活力と発展に不可欠であることを明確に示している。地租改正による農民の困窮とそれに対する減税要求、政府の過度な規制に対する民間の自律的な産業振興の試み、そして近江商人の広範な経済活動は、いずれも「減税」と「規制緩和」が経済成長と国民の幸福に寄与するという現代の主張に歴史的な裏付けを与える。

歴史は、政府の介入が時に意図しない負の側面(米の品質低下など)を生み出し、また、民間の活力や創意工夫が、産業の近代化や市場開拓の原動力となったことを示唆する。地租改正の事例は、税制が生産者のインセンティブを歪め、産業に悪影響を及ぼす可能性を示した。一方、米質改良組合や彦根仏壇同業組合のような民間の自主的な取り組みは、規制がなくとも品質向上や市場適応が可能であることを証明した。さらに、近江商人の広範な活動は、自由な経済活動が地域経済の枠を超えた発展を促し、社会全体に貢献しうることを示した。

 

滋賀の歴史的経験は、現代の政策立案者に対し、以下の重要な示唆を与える。

 

  • 税負担の軽減: 過度な税負担は、生産者の意欲を減退させ、経済活動を停滞させる可能性がある。明治期の地租改正反対運動が示すように、国民の経済的苦境は政治的安定を損なう可能性もある。減税は、可処分所得を増やし、消費と投資を促すことで、経済全体の活性化に繋がる。

  • 規制の最適化と緩和: 産業の多様な発展やイノベーションを促すためには、政府による画一的な規制を最小限に抑え、市場や地域社会の自律的な調整能力を信頼することが重要である。彦根仏壇同業組合のような自主的な品質管理や、近江商人の自由闊達な商業活動は、規制緩和がもたらす経済的活力を歴史的に証明している。

  • 民間活力の尊重と支援: 産業振興においては、政府が直接全てを担うのではなく、民間企業や地域住民の自律的な取り組みを尊重し、必要な支援を行う「伴走型」の政策が効果的である。塚本兄弟の植林事業や米質改良組合の活動は、民間の社会貢献意識と経済活動が結びつくことで、より大きな成果を生み出す可能性を示している。

 

これらの歴史的教訓は、現代の「減税と規制廃止派」の活動が、単なる経済効率性だけでなく、国民一人ひとりの経済的自由と、それを通じた社会全体の持続可能な発展を目指す、正当で確信に満ちたものであることを強く示唆する。

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